2013/06/19

「キャラ」と「個性」の違い

<「キャラ」と「個性」は違います>

 コラムニストのブルボン小林氏は、その著書『マンガ ホニャララ』で、ひとつの章にこの題名を掲げている。中学のころからほとんど漫画を読まなくなった自分にとって、萌え系コンテンツではなく、『ドラえもん』をベースに漫画批評を展開してくれる同書は、僕と漫画とを久しぶりに再会させてくれた一冊になった。
 その中でも印象に残るのが、氏のいう「キャラ」と「個性」の違いの話だった。

「『キャラ』という言葉だが、僕の定義ではこれは『個性』と似て非なるものだ。/たとえば野球もので『ドカベン』は主としてキャラの漫画だが、『キャプテン』は主に個性を描いた漫画である」

 『ドカベン』の岩鬼や殿馬が、一コマみただけでわかるような「キャラ」の立った存在として描かれているのに対し、『キャプテン』の登場人物はパッと見ただけではその違いがわかりにくい。しかし、ページを進めるうちに、丁寧に描き分けられたそれぞれの人物の差が見えてくるというのだ。
「一コマみただけでは判然としにくい彼らの『個性』の差は、読書という行為の連続の中にのみ立ち現れる。」というブルボン氏の指摘には、『キャプテン』をよく知らなくても、おおいに頷けるものがある。

 さて、じゃあラジオは「キャラ」志向のメディアか、それとも「個性」志向のメディアか。これは意見が分かれるかも知れないが、個人的には完全に後者だと思う。
 むろん、ちょっと声を聴いただけでそのパーソナリティを「キャラ」に仕立ててしまうような、そういう強烈な声色や語り口はラジオパーソナリティにとって大切なことがある。若山弦蔵や林原めぐみのように、声優の仕事をしている人たちは、やはりそういう特性が強い気がする。とはいえ、「キャラ」に転化しがちなそれらの性格は、結局のところラジオにおいては、漫画ほどの賞味期限を保つことは到底できない。
 そもそも「ラジオを聴く」という行為は、ブルボン氏のいう「読書」以上に読書らしい、きわめて「連続」性が強調されるものだ。恐らく、その連続性のなかで、パーソナリティの「キャラ」だけで帯番組を飽きずに聴き続けることは至難の業であろう。最初に聴いたときに伝わってくる「キャラ」が、彼/女のファンとなる重要なきっかけになることはあろうが、二日目からはもう「キャラ」ではなく「個性」を追いかけているはずだ。多くが「生放送」で巻き戻しができないというラジオの本質的特徴は、そこに出演する人物をひとつの「キャラ」に押し込めておくことを、むしろ容易にはさせない。換言すれば、その不可逆的な時間軸において、喋り手が「キャラ」を意識した途端、その虚構性がむしろ際立ち、きわめて気味の悪いものとして聴こえることだろう。

 したがって、良いパーソナリティというのは、まず連続的な<語る>/<聴く>という相互行為において、その「個性」が際立つ人物のことを指すと考えたい。「キャラ」的なインパクトは、せいぜいその添え物でしかない(だからといって不要というわけではないということは改めて強調しておく)。この点に留意したとき、たとえば「天然キャラ」や「食いしん坊キャラ」といった、喋り手に対するキャラ的な同定は、ラジオというメディアにとって邪魔になることが多いと思う。確かに、こうした「キャラ」がスタジオの中でも、そしてラジオの向こう側でも共有されているほうが、対話の展開もリスナーの関与もしやすいのだろうが、生放送で展開されるそうした「キャラ」の応酬は、そのうち茶番以上のもに聴こえなくなってくる。特に若い喋り手で、自らの話術の未熟さを、「キャラ」を立てることでカバーしようとする人がときどき見受けられるが、それが通用するのはごく初期のうちだと考えたほうがよい。自分の経験と内面を省察し、自らの語りを「キャラ」ではなく「個性」に昇華させられる喋り手こそが、ラジオでは光るのだ。

 テレビのバラエティ番組は、ますます「キャラ」志向に傾いている。政治家の世界さえ、そういう風に描かれる。教室では、一度「いじられキャラ」と見なされた子どもが、その後もずっと「いじられキャラ」を自ら保つことで、クラスでの位置を守って安心を得たりしている。恐らく、「キャラ」を理解するよりも、「個性」を理解することのほうが面倒で時間がかかるのであり、だからこそ「キャラ」化は容易に進んでしまう。それによって見失われる「個性」の、なんと多いことか。そんな「キャラ」化世界は、楽ちんなようで、実は全員が漫画の登場人物を演じているような、苦しくて気持ちの悪いものだ。
 その世界から、自分の「個性」を救い出すためには、他人の「個性」を理解するタフさと優しさが必要であろう。しかし、ラジオというメディアさえ「キャラ」化してしまったら、僕たちがそうした「タフさと優しさ」を身につける場は、ますます減ってしまうに違いない。
 ブルボン氏によれば、「キャラ」の権化のように思える漫画さえも「個性」を追究しはじめているというのだから、ラジオこそその本質を見失わうことなく、世界の加速的な「キャラ」化を食い止めるような、そういう役割を果たし続けてほしいと思う。

2013/06/16

私家版ラジオ論

 ラジオについて書き連ねてみようと思う。
 縁あって大学卒業後にラジオ局に勤めるようになり、決して長くないキャリアの間に営業にも制作にも携わることができた。ディレクターとプロデューサーという職種も務め、目立ちたがりの裏方としてときに出演もし、フリーランスも経験した。
 こう書くと、就職がラジオとの縁のはじまりのように見えるが、自分の場合は小さいころからのラジオっ子。小学生のころには既にラジオ番組をつくる仕事への憧れが芽生えていたと見え、弟といっしょにオリジナルのラジオ番組をカセットテープに吹き込んだりしている。中学生のときの職場見学もラジオ局。というか、僕が7年間働いた茨城放送を見学したのだから、これは縁というより執念のようなものだ。
 つまり、10代から20代という、人格形成にとってその8割ぐらいを規定する時期にラジオにどっぷり浸かったわけで、それはすなわち、自分の人生がラジオとはもう切り離せないということ。しかも違う職業に移った今こそ、余計に強くそう感じるのである。自分はどうしようもなくラジオが好きだということは、他のあらゆる分野の話と同様、離れてみて実感するものだ。
 ただし、コミュニケーションビジネスという世界に身を置くことで、ラジオというメディアの未だ秘めている可能性も、一方でリアルに直面する存亡の危機も、ともに、よりシャープに見えてくるようになった。だからこそ、ラジオというメディアに自らの運命を売った自分としては、その持続可能性のために、経験とアタマをちゃんと使うべきなのだろうと思う。たぶんそれが、どんな仕事をしていようと(ラジオ局で働いていようといまいと)、やらなくてはいけないミッションなんじゃないかと、やたら大きく考えるようになった。それでとりあえず、ブログを始めることにした。
 これからこのブログでしていくことは、個別の番組論やDJ論を語るのではなく、ラジオというものが文化的に、あるいは社会的に、あるいは経済的に、どういうメディアであるのか、そしてその価値を今の社会に活かすために何ができるか、ということについての思考実験である。「第一章 社会的側面」みたいな緻密な章立てをした途端、筆が進まなくなることは自分でわかっているので、基本的にはそのときそのときに書きたいことを書いていくこととする。抽象的な話もそれなりに出てくると思うが、それは自分のパーソナリティと経験の水脈を通って出てくるものであり、それゆえこのラジオ論には、「私家版」という古めかしい言葉をつけておく。
 30歳という区切りの年を目前に控え、社会のなかで自分という人間が何ができるか/何をすべきかと改めて考えたとき、ラジオというメディアの未来に、文字通り「一石を投じる」ことに挑むというのは、ある意味で唯一自分ができそうなことに思える。というか、これさえできなかったら、結局他のどんなこともできない。気持ちはそのくらい大きく、でも構えすぎると続かないので、とりあえず偉そうな「宣言」だけしておいたところで、次からはさっそく肩の力を抜いて書いていくことにしよう。さて、どうなることやら…